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7月22日の推敲 2011年07月23日 雑記 トラックバック:0コメント:0

「裏切られた!」とか「失望した!」という言葉をためらいもなく話す人を見ると、なんだかなぁ、という気持ちになる。
あの一番に声を上げた者が救われるような風潮を信じている人というのは、自分の良心が万人のそれと重なるとでも思っているのだろうか。
そうだとしたら、たいそうな買い被りじゃないか。ちょっと理解が出来ない。

少し話が変わるけど、万人に理解されうる感覚というのはあるのだろうかと考えている。それはどんな感覚だろう?
たとえば小学校で習う算数の公式の暗記は共有される物の一つ。足し算から始まって台形の公式、高さと速さの関係(理科かもしれない)などなど。
というか学校の試験というのは共有しなければいけない常識を測るテストだったんですね、今気づいた。

少し話が逸れたので引きもどすと、個人の良心だったり信条は完全に重なることはないという前提に立ったうえで、
全人類が、もう少し狭くすると全日本人が共有できる感情とか共有することを目指した指向とか、それに準じるものがあるとしたら、それはどこから湧き出してくるものなのだろう?
労働の場からなのか、趣味の場からなのか、生活の場からなのか。
一つだけ言えることは、社会に出ている色々な創作物だったりパッケージされた商品の大部分は間違いなくそういう出発点から生まれてきたものなんですよね。
というかそうだと信じたいし、そうでなきゃ困る(知らないけど)。そういうことが考えられてると思うと嬉しくなりますよね。
たとえそれが資本主義というフィルターを一度通って来ているとしても、嬉しい。

肩を持つわけではないですけど、社会という漠然とした物の上で人間がいっしょくたになって裏切られたり失望したりして、それでもなお生きているわけだから、
それをあたかも自分だけに降りかかってくる火の子だと思ってしまう心情というのは、やはりわかりたくない。
先天的な蓋然性への当てこすりは自分を取り巻く環境への懐疑にほかならない。生活の否定だ。
どうしようもなく理性からあぶれてくる困惑が人の想像を結実させる源に違いないですよ(俺説)。

差し迫った危険が近づいてきた時に人は頭を使う。
もし、そんな状況でも頭を使えない人には、ここで一方的に引導を渡しておくことにする。

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