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生活,mono-ihu,書物 2011年08月12日 mono-ihu トラックバック:0コメント:0

二週目は『生活』「もの云う書物」

古川日出男『馬たちよ、それでも光は無垢で』

馬たちよ、それでも光は無垢で

声はシンプルに命じている。「そこへ行け」と。
平成23年に僕たちは存在していた。存在しているはずだった。いや、実際に存在している。
しかし、物語は、事実は有無を言わせずにすでに押し寄せた。
『馬たちよ、それでも光は無垢で』は古川日出男『聖家族』の延長線上にある小説だ。
その冒頭は『聖家族』の一場面を連想するように始まり、やがて空想ではない日常に接続されていく。

<その体感をひと言にまとめるならば、時間の消滅だった。>
<この体感を、もしかしたら私は命名できる。”神隠しの時間”と。>

古川日出男であり、読者である「私」は”神隠しの時間”のなかであの日のあの瞬間へと遡る、311に。
画面の前であちらから弾かれていた「私」は足を向ける、Fukushimaへ。
そして出会う、馬に、無垢な光に、彼に。事実は急速に物語をラストシーンへ向かって描き出していく―。

しかしお前は生きて戻った。その未来を俺は見て、祝そう。

古川日出男
[古川日出男/フルカワヒデオ 1966年生まれ、福島県出身]

東日本大震災が発生がしてから5か月が経ち、人も街も平穏を取り戻したように思えます。友達と飲みに行っても地震の話はしないし、ニュース番組の節電予報すら飾りのような印象を受けてしまう。それはきっと震災から時間が経ったことや、電力消費量の情報隠ぺいが明るみに出たこと、自身への直接な被害を受けることが無くなった(隠されている)ことが理由としてあるのでしょう。自分たちが生活の主体であるという実感を失って非日常に慣れきってしまったことも確かにわかります。しかし、花火大会の自粛や、「がんばろう!日本」というスローガンは決して虚構ではないはず。どんな論理でも説明しきれない、このもやもやとした気持ちはなんだろう。その違和感に応えてくれる一節が中盤に記されていました。

<平穏なのではないのだった。そういうのとは違うのだった。平然としているのだ。そう構えるしかないから。他に何もできないのならば、何をする?>

そうだ。自ずから平穏を保っているのではない。どうしようもないからこそ、普通を装っていたのではないでしょうか。なにもしないのではなくて、なにもできないからこそ今までの習慣を繰り返していたのです。それこそ無垢に。
3月11日以来、僕たちは断絶を知った。突然に生まれた歪みによって生活が隔てられるのだと知ってしまった。けれど、その前にあって無力という言葉に喘いでいたとしても災害は決して消えません。悲しみだって薄れることはあっても完全に消えることはあり得ないのです。眼を背け続けることはできない。入口はいくつも用意されているはず。だから今度はポジティブな意味で使おう。他に何もできないのならば、何をする?

小説が語るのは空想です。たとえそれが事実を内側に内包した空想だとしても。
しかし、『馬たちよ、それでも光は無垢で』が描き出すのはフィクションであり、また同時に揺るぎない事実そのものでもあるのです。それを隠さないことが、この小説を今、読む意味のあるものにしているのでしょう。全132ページに渡って続く衝迫の言葉に、もしかしたら、あなたは耐えられないかもしれません。それでもなお強くありたいと思い、それを乗り越えていこうとするのなら、この本を手にとって欲しい。
「私」の祈りがここにあるから。


・・・・


三週目は『生活』に「もの云う映画」です。8月20日土曜日に更新予定!

生活,mono-ihu,音楽 2011年08月03日 mono-ihu トラックバック:0コメント:0

mono-ihuは、一つのキーワードを音楽・文章・人物・映像などから多角的に観察し、その本質を明らかにしようとする試みです。
というか言葉足らずがものを語ろうとするときには多くを語る以外に方法がないのです。そういうことです。


一週目は『生活』「もの云う音楽」。まずは定義に目を通してみる。

生活(せいかつ、life)は、人が生きている限り、その命を維持し、育むために行っている必要不可欠な活動のことである。
基礎となる「衣食住」の他、日常生活動作という名でいうようなものや、働くこと、余暇を営む、コミュニケーションをとり、生きることの中に積極的な意義を見出し、
それを喜びとする営み、職業生活と私的生活、また、その間の社会的な生活といった分野にまたがるもの全てをいう。(wikipedia)


音楽というフィルターを通して見た生活
音にかぎって言えば、僕たちはありとあらゆるものに取り囲まれています。人の声、雑踏の喧騒、諸々の機械音、移りゆく季節の自然が発するざわめき。それこそ、文字に起こそうとすればきりがないほどの音。しかし、これらは僕が能動的に選んで聴いているものではない。聞かざるをえない、受け取らざるをえない音です。

では、それとは逆に自分で、あえて聴こうとする音とはどんなものなのか。

人が恣意的に音を聴こうとするとき、当然ながらも、その選択肢は個人の主観によって様々に異なります。はじめの分かれ目は受け取らざるをえないものから選びとる音か、もしくは人の手によってつくり出され、パッケージされた音楽かの二択。前者はピントを合わせる対象にしぼられます。しかし、後者はどうでしょう。要因は複雑な様相を呈してくる気がします。たとえば、そのいくつかは心地よいメロディーであり、現在の気持ちを代弁してくれる歌詞でもあるでしょう。これらの多くに共通するのは人間の生理的な部分に影響されている、という点。つまり、積極的に音楽を聴こうとする意識は、どのように生活するか、という志向に由来しているのです。

阿部芙蓉美『ブルーズ』

ブルーズ

生活というキーワードを考えるにあたって、最初に浮かんだのが阿部芙蓉美さんでした。

[阿部芙蓉美/アベフユミ、1983年生まれ、北海道出身]
2011年8月24日ミニアルバム「町」リリース予定。表題曲となる「町」は、NHK総合で7月26日(火)より放送の向田邦子原作のドラマ「胡桃の部屋」(毎週火曜22時~、連続6回放送予定)のエンディング・テーマにも起用される。また、この夏は【RISING SUN ROCK FESTIVAL 2011 in EZO】【ARABAKI ROCK FEST.11】といった大型野外フェスへの参加予定している。(公式HPより)



言葉にしがたい切なさと決意が「開け放つ窓」などでアルバムの一貫した雰囲気を作り、その合間に挟まれた「on saturday」や「trip-うちへかえろ-」といった楽曲が宇宙の深淵を彩る星々のように光をちりばめる。不思議なことに、これらの曲は音楽を聴くぞ、という風に意気込んで挑むものではなく、前に述べたような受動的に聴いてしまっている音のイメージに近いのです。もちろん、電子音などあからさまな意図を感じないことや、彼女のとっている音楽のスタイルにも根拠はあるのでしょう。しかし、その一番の理由は彼女の声を張らない歌唱方法にあるように思います。

もともと声量が小さく腹式発声が苦手だった阿部に、作曲家の谷本新がアドバイスを与えて確立したのが、この歌い方なのだそう。囁くような独特の歌声が、その響きに合わせて背景の音楽と同化していくような感覚を抱きます。専門家ではないので、ただの音と音楽の差について言い及ぶことはできませんが、音楽を受動的な音として聴くことができたなら、音楽が生活に結び付いていく度合いも大きくなるのではないでしょうか。

音楽との接着点、深化する生活
では、どのようにしたら音楽は受動的な音へと変わるのか。そこには身体と音楽との距離が強く影響していると言えます。

ライブハウスのような大音量を出さなければ、音楽から直接の感蝕を確かめることはできないと思うかもしれません。音ととしての面だけを切り取って見てみれば間違いはないです。しかし、僕らは音楽を聴くための媒体には、なんども触れており、その手ざわりを知っているのです。それこそ暗い部屋の中でCDプレイヤーの電源を探り当てたり、視覚の外にあるウォークマンの再生ボタンを操作できてしまうほどに。

人は自分の行動の範囲内にいくつも生活の痕跡とも言えるマークを残していく。それは体の一部で触れること、自己の゛なごり゛を残すことです。なごりを残す回数が増えるほどに、身体との距離が近づくほどに物体はその属性を薄め、あたかも身体の延長線上にあるように感じるでしょう。言葉を変えれば、それが゛慣れる゛ということなのかもしれませんね。僕たちは知らず知らずのうちに媒体を通して音楽に触り、その一部を生活の中に織り込んでいるのです。


・・・・


さて、ここまで音楽という一つの面から生活を見てきました。この企画の主旨通り、別の角度へ移動することにしましょう。
二週目は『生活』に「もの云う書物」です。8月12日金曜の更新予定!

連動型レビュー企画[mono-ihu] 2011年07月30日 告知 トラックバック:0コメント:0

連動型レビュー企画[mono-ihu]やります。

8月の4週、全4回に渡る中長期企画。
テーマは『生活』です。

一週目は「物云う音楽」、8月5日(金)に更新予定。
プレゼンティッドバイYou Say "Good!" Label、こうご期待!

一週目 - 生活,mono-ihu,音楽

7月22日の推敲 2011年07月23日 雑記 トラックバック:0コメント:0

「裏切られた!」とか「失望した!」という言葉をためらいもなく話す人を見ると、なんだかなぁ、という気持ちになる。
あの一番に声を上げた者が救われるような風潮を信じている人というのは、自分の良心が万人のそれと重なるとでも思っているのだろうか。
そうだとしたら、たいそうな買い被りじゃないか。ちょっと理解が出来ない。

少し話が変わるけど、万人に理解されうる感覚というのはあるのだろうかと考えている。それはどんな感覚だろう?
たとえば小学校で習う算数の公式の暗記は共有される物の一つ。足し算から始まって台形の公式、高さと速さの関係(理科かもしれない)などなど。
というか学校の試験というのは共有しなければいけない常識を測るテストだったんですね、今気づいた。

少し話が逸れたので引きもどすと、個人の良心だったり信条は完全に重なることはないという前提に立ったうえで、
全人類が、もう少し狭くすると全日本人が共有できる感情とか共有することを目指した指向とか、それに準じるものがあるとしたら、それはどこから湧き出してくるものなのだろう?
労働の場からなのか、趣味の場からなのか、生活の場からなのか。
一つだけ言えることは、社会に出ている色々な創作物だったりパッケージされた商品の大部分は間違いなくそういう出発点から生まれてきたものなんですよね。
というかそうだと信じたいし、そうでなきゃ困る(知らないけど)。そういうことが考えられてると思うと嬉しくなりますよね。
たとえそれが資本主義というフィルターを一度通って来ているとしても、嬉しい。

肩を持つわけではないですけど、社会という漠然とした物の上で人間がいっしょくたになって裏切られたり失望したりして、それでもなお生きているわけだから、
それをあたかも自分だけに降りかかってくる火の子だと思ってしまう心情というのは、やはりわかりたくない。
先天的な蓋然性への当てこすりは自分を取り巻く環境への懐疑にほかならない。生活の否定だ。
どうしようもなく理性からあぶれてくる困惑が人の想像を結実させる源に違いないですよ(俺説)。

差し迫った危険が近づいてきた時に人は頭を使う。
もし、そんな状況でも頭を使えない人には、ここで一方的に引導を渡しておくことにする。

冷めつつある憤りについて<ミドルオブノーウェア> 2011年07月22日 雑記 トラックバック:0コメント:0

去年の秋ごろ、大学の部活で学祭の準備をしてたとき、勢い余って先輩に「いやぁ大変ですね」なんて洩らしたせいで大ひんしゅくを買うことになった。
先輩の主張は「部活なんて遊びなんだから疲れたなんて言ってるんじゃない」というもの。

大学という看板の庇護にあずかっている以上、自分がいくら犠牲を払ったとしても遊びにしかならないことはもちろん分かっている。
しかし、腹が立つことは腹が立つ。こっちは体力を削って遊んでるんだよ!という誰にも向けるべきではない怒りはどうすればいいだろう。


・・・


遊びと仕事の境があるとしたら、金銭の移動が発生するかしないかという違いだ。
大学の文化祭でもなければ普通の人が手間をかけて来るわけがないし、無料じゃなければ見るわけがない(個人的な所感です)。
前提として、遊びというのは許される規模がとてつもなく大きい、というのは覚えておかなければいけない。

金が発生しなければ、ある程度は好き勝手にやっても構わないだろうし(あからさまな不法行為は除く)、アクセスの容易さも保障されるだろう。
これは提供する側とされる側に損なわれるコストがないということの現れだと思っている。そのかわり、遊びは終わった後に残るものが極めて少ない。
甘えを測る尺度がないように、わざわざ遊びに文句を言う人なんて存在しないんですよ。
逆説的に言うと1円でも金がかかるということは生活に直結するということだから、コンテンツの質自体が問われ、淘汰の波に振るわれることになる。
それが仕事ということでしょう。

しかし、「金を取らないものが全て遊びになってしまうのか」と聞かれたら、そうではないだろうというのが僕の意見。
体話だったりA Book Coveredというのは金を取ってはいけないものだし、無料だからこそ発表できていると思っている。
しかし、遊びでやっているのではなくて、金が取れないだけと言わざるをえない。
それに「金を取らない仕事」や「金を取る遊び」だってあるはずだ。だってポストモダンですよ?

結局、金を取るのか取らないのかは生存戦略や自信の無さだったりで各々が取捨する選択でしかない。
遊びなのか仕事なのかという差異すら、目的ではなくて手段に変わってきているのだろう。
言葉遊びになってしまうけれど、「何かを得ることは何も得ていない状況の破棄にほかならない」というのは、まさに的を得た(射た)表現じゃないか。

You Say "Good!" Labelは未だに捨てる覚悟ができないまま遊びを続けている。
自信もなければ覚悟もない。金もない。ください。


・・・


なんという理不尽な日記だろう。愚か者のたわごとですね。
次はもっと具体的なことを書きたいと思います。

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